2017-06-02

防災シンポジウム「熊本地震に関する鹿児島大学の活動報告」で趣旨説明に使ったスライド

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2013-10-28

卒業研究のテーマを考える

 他の分野でもそうなのか、あるいは地震学の分野でも人によるのかもしれなけれど、大学 4 年生の卒業研究のテーマを考えるというのは、なかなか難しい。

 4 年生なので、ようやくその分野の基礎的な知識・考え方が備わってきたという段階。しかし、研究をやるからには、これまで誰もやっていなかったことをやらせたい。難しすぎず、かつ、誰もやっていない、かつ、限られた時間内で、というのを両立させようとすると、かなり自由度が低くなる。特に自分の得意な分野(地震学の中のさらに狭い分野)だと限られてしまうので、得意ではないけれど指導できそうな分野、にも手を伸ばすことになる。そうすると、自分も勉強して、下調べ、下準備をやっておかなくてはいけない。場合によるけれど、これにかなり時間を費やされることもある。

 あまり知られていないだろうけれど、意外と卒業研究指導は大変なのであります。「親の心、子知らず」ならぬ「師匠の心、弟子知らず」。もちろん(?)私が学生のときは、師匠の心は知るよしもなく……。

 最近ちょっとネタ切れになってきたので、来年はどうしようか、と思っているところ。今のうちに下調べをしておかないと、と思っている。

 ちなみに私が 4 年生の時は、研究ではなくて、レビュー論文(あるテーマについてこれまでの研究をまとめた論文)が卒業論文だった。

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2013-06-07

講義で脱線してちょっと地震予知の話をしてみた

地震予知に関して、今日ちょっと講義を脱線する形で話してみました。そのときのスライドを(大幅に加筆修正して)公開してみます。ただし、昨日、思いつきで準備したので、練られていないところも多々あります。講義ではだいぶ補足しながら話しました。

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いろいろと反論/異論はあるでしょうけれども。

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2013-03-21

大学での成長

 大学で教える立場になってみて実感するようになったことの 1 つに、学生にとって大学の 4 年間というのはとても大きい、ということがある。向上心を持っている人はものすごく成長するし、そうでない人はあまり成長しない(大半の人は「それなり」に成長している)。

 もちろん、これは大学に限らないことだとは思う。しかし、世の中では他人に対して出身大学の名前で判断する人がいる。これは、大学の中での成長がほとんど考慮に入れられていないことの表れなのではないか。

 さらに言えば、大人になってから成長も同様で、向上心のある人とそうでない人は、差が開く。それこそ大学の 4 年間の比ではない。

 ということで、卒業する人、おめでとう。入学する人、ようこそ。卒業や入学はゴールではなく、通過点。向上心を忘れずに。

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2013-03-20

子供が減っているから当たり前

 国立大学教員の人件費が減額されていて、少しずつではあるけれど、教員のポストが減っている。これについてよく「子供が減っているから当たり前」と言われる。でも(少なくともウチの学部は)入学定員は減らしていない。入学定員減らしても良いのかな。でも、たぶん上の方から「それはできない」と言われるんだろうな。

 もっとも、入学定員を減らしたとしても、せいぜいレポートやテストの採点時間が減るとか、卒業論文を指導する学生が減るとか、そのぐらいしか負担が減らない。

 教員が減ると、その仕事の分が他の教員の負担になる。しかしすでに他の教員の負担も相当なものなので、背負いきれない。では実際にどうしているかというと、授業を減らしている(一時的には非常勤講師をお願いすることもあるけれど、限度がある)。科目そのものがなくなることもあれば、科目の授業時間を半分にして単位も 2 単位から 1 単位に減らす、ということもある。それでも、減った教員の分の授業時間分 100 % を減らせるわけではない。50 % とか 70 % とかそのぐらいだろうか(ちゃんと計算してないから違うかもしれないけど)。したがって、残った分は、他の教員への負担となる(しかも、委員会活動はそのままなので、そういういった分の負担は100 %残り、他の教員へ振り分けられる)。

 いずれにしても、学生から見ると、受けることができる授業が減っていることになる。卒業するための単位数を取得するのには、開講科目の総単位数はまだまだ余裕があるので、その点は大丈夫ではある。授業が少ないほうがうれしい学生も多いかもしれないけれど、でも、たくさん学びたい学生にとっては損だろう。

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2012-12-19

ハザードマップの理解を広めるには、どうしたら良い?

 ハザードマップは、ほとんどの場合、あるシナリオに基づいて作成される。しかし、それは、1つのシナリオに過ぎない。全く別のシナリオになる可能性も大いにある。そうすると推定は大きく変わる。そんなシナリオは無数にある。その中にも、有り得そうなシナリオと有り得なさそうなシナリオとがある。そういうことを考えると、ハザードマップはかなり解釈や取扱いの難しいものといえる。

 そういう背景を含めてハザードマップを説明するのは、少なくとも短時間ではできない。しかし、それをしなければいけない時代に来ていると思う。ハザードマップは、配って終わり、ではなく、配った後からが本当の難しいところ。丁寧に時間をかけて説明しなければいけないのではないか。

 説明のための媒体としては、テレビや新聞といったマスメディアがすぐに思いつくけれど、時間や紙面に限りがあるし、編集権が向こうにあるので、自分の意図するように伝えるのは難しい。情報の一人歩きも懸念される。

 時間や紙面という点でいえば、ネットが非常に有効だろう。ネットならば、時間も紙面も気にしなくてよい。実は、公共の報告書はすでにネットで公表されていることが多く、内容も充実しているところも出てきている。可能な限り説明できる、という土壌はできている。

 しかしながら、ネットの情報はプッシュ型ではない。知りたい人は検索して情報を得ることができる。しかし、発信側が多くの人に知ってもらいたい、と思っても、情報を届ける、ということができない。

脱線:多くの人に知ってもらうという面では、もちろんマスメディアが圧倒的に良いのだけれど、実はそうは言っても意外とたかが知れている。新聞の購読人口は減少する一方だし、ましてやその記事が読まれる割合はもっと少なくなる。TV も視聴率を考えれば、1つの番組で多くて20 %がせいぜいか。多くの人(大半の人)に伝えることがどれだけ難しいかよく分かる。

 ネットの話に戻ると、おそらく、情報を常に公開する、という行為を「継続すること」が、実は非常に重要なのではないか。検索をして情報を得た人は、あそこにいけば、あの情報がある、ということが頭に入る。時間が経てば、そういう人が徐々に増える。少なくとも、そういう人達に対しては、継続することで信頼を勝ち取っていく事になる。例えば、何かあった時に、その信頼はとても強みになるはずだ。

脱線:そういう意味では、公共だけではなく、個人でも、地震学者はどんどんblogなり、twitterなりをやっていったら良いのではないか、と思っている。たとえ TV や新聞で、自分の意見が不本意な形で取り上げられたとしても、すでにネットで信頼を勝ち取っていれば、心強いのではないだろうか。

 次に考えられるのは、一般講演会等だ。もちろん、これは TV や新聞はもちろん、ネットよりも、情報を届ける人数が格段に少ない。しかし、講演会のメリットは、質問を受けることができることだ。つまり、コミュニケーションをとることができる。情報が一方通行ではなく、何が伝わっているのか、伝わっていないのか、何を不安に思っているのか、などが分かる。そして、質問に的確に応答することで、よりよく理解を深めてもらうこともできる。これも長い時間をかけて継続的に行なっていれば、ゆっくりとだが着実に理解が広まるだろう。

 最後に、効率良く、と考えると、どうしても、教育、にたどり着く。子供のうちから教えておけば、数十年もたてばかなり浸透するだろう。しかし、大きな問題がある。それは、ハザードマップが、教える項目として取り上げられるかどうか、だ。ほかにも、教育で取り上げてほしいと思われている項目がたくさんあるはずだ。それらの競争に勝つことができるかどうか。

 結局のところ、どれも一長一短で、決定打がない。いろいろと模索していくしかないかもしれない。

 こういった話は、ハザードマップに限らない。いろんなことに当てはまる。

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2012-07-27

独学できる力をつけること

 これだけ自然災害に注目が集まる世の中でも、一向に地学の重要性は認識されない。さらに言えば、環境問題やエネルギー問題でも地学は重要な位置を占めるのにも関わらず、地学は相変わらず不人気のままだ。

 そういうこともあって、地学に携わる人は、地学教育の強化を訴える。私もそう思う一人ではある。

 しかし、私の場合は、一歩引いている。というのも、おそらく、これはどの分野でも、自分の分野の教育が足りないと思っているのでは、と想像するからだ。例えば、世の中で暮らしていくには、経済や法律はもっと知っていて欲しいと思っている人は多いだろう。国際化を進めるのであれば、地理や歴史(世界だけではなく自国のも)はとても重要だと思う人もいるだろう。いろんな分野で強力な武器になる統計学もそうだろう。その他、どの分野も実は同様なのではないだろうか。

 どの分野もまんべんなく十二分な教育をすることは不可能だ。そうすると、優先順位を考える必要が出てくる。他の分野に比べて、地学はやっぱり教育を強化する優先度が高いと言えるだろうか。もちろん、地学分野の人はそう思っているだろうが、それを決めるのは、一般の人だろう。

 いずれにしても、取りこぼしが出てくる。そう考えると、一番良いのは、人が学校以外で独学で学べるようにすることではないか、と思う。学校にいるうちはもちろん、社会に出てから、あるいは定年を迎えた後でも、独学できる人は強い。そういう力をつけさせることも教育なのではないか。むしろ、そういう力こそが重要なのかもしれない。

 なんとか大学でそういう独学できる力の重要性を学生に教えたいと思っているのだけれど、まだまだうまくできていない。

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2012-07-11

大学での入試の種類

 大学・大学院での入試(あるいはそれに類する試験)のリスト。追試(本試欠席者対象)は除いている。意外と知られていないけれど、結構多い。似ているものはまとめて同じ日に実施することもある。これは私の所属するところの話なので、他のところは少し違うかもしれない。

 もし、これで春入学、秋入学が並行するようになって、それぞれ別々に試験しなさい、となったら破綻するだろうな。

■ 学部
・大学入試センター試験(1月)
毎年実施。大学では主に監督業務。

・一般入試(個別学力検査)前期日程(2月)
毎年実施。

・一般入試(個別学力検査)後期日程(3月)
毎年実施。

・推薦入試・AO入試(11月)
毎年実施。うちの学科は推薦入試。同じ学部の他の学科はAO入試。

・私費外国人学部留学生入試(2月)
出願者があった場合のみ実施

・転入学試験(11月?)
他大学在籍者が対象。定員に余裕がある場合に募集。出願者がいれば実施。

・編入学試験(11月?)
大学・短大・高専卒業(卒業見込み)者が対象。定員に余裕がある場合に募集。出願者がいれば実施。

・転学部・転学科試験(半年ごとに機会)
大学内在籍者が対象。出願があり、定員に余裕がある場合に実施(厳密には入試ではない?)。学部・学科によっては転学部・転学科を認めていない場合がある。

■ 大学院(口述試験以外は、一般のほか、社会人、外国人留学生の試験がある。)
・博士課程前期(修士課程)入試一次募集:口述試験(7月)
毎年実施。これだけで合否判定。地球環境科学専攻は実施していない。一般選抜のみ。

・博士課程前期(修士課程)入試一次募集:筆答試験(8月)
毎年実施。口述試験に落ちた人+新たに出願した人対象。

・博士課程前期(修士課程)入試二次募集(2月)
一次募集で定員に満たない場合に募集、実施(実情は大半が実施)。

・博士課程後期(博士課程)入試一次募集(8月)
毎年実施。

・博士課程後期(博士課程)入試10月入学分(8月)
出願があれば実施。

・博士課程後期(博士課程)入試二次募集(2月)
一次募集で定員に満たない場合に募集、実施。

※ 勘違いしているところもあるかもしれない。

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2011-09-21

洋楽で英語を勉強する、というのは私には無理だった

 中学のとき、英語の学習方法でいろいろな方法が提案されていたと思う。その中のひとつが洋楽を聴くことだった。歌詞を聴いてそれで英語に慣れよう、表現を覚えよう、というもの。でも私には全くダメだった。

 このときはただ単にリスニング能力が低いためだと思っていた。実際、音楽以外も聴き取りが苦手だった。しかし、ようやく少しずつ聴き取りもできるようになってきても、相変わらず洋楽の聴き取りはできていない。

 考えてみれば、私は日本の曲でも、あまり歌詞を聴いていない。歌詞カードなどの文字を見ないとなかなか頭に入ってこない。サビは覚えているのに、それ以外はさっぱり、というのが多い(ちゃんと聴き取っているものもあるにはある)。日本語でこれでは、英語ではなおさら聴き取れるわけがない。

 結局、私には洋楽で英語を勉強するという方法が全く向いていなかったわけだ。きっとこういう、自分に向かない勉強法で苦しむ、というのって、多いんじゃないか。勉強法には向き不向きがある、というのはあまり意識したことはなかったけれど(無意識に選択していたのかもしれないけれど)、これに関しては大いに実感した。

 今、教育にも携わっているけれど、こういうのを意識しながらやらないと、まずいんだろうな。

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2011-09-14

大学の講義のあり方

矢野健太郎著『ゆかいな数学者たち』の高木貞治さんの章で、つぎのようなエピソードがある。タイトルは「小さな声の講義の効用」。要約すると次のような感じ。

(要約) 高木先生の講義は声が小さく、黒板の字も薄い。学生は講義がすむと図書室へとんで行き、いろいろな本をひっくり返して講義の内容を確かめ理解に努めた。一方、T教授は声が大きく、黒板もはっきりと書くので、その場で理解できた。学生同士で、T教授は講義がうまいが、高木先生はそうではない、と噂話をしていたら、それが高木先生のお弟子さんの耳に入った。お弟子さんは次のように言った。 「高木先生のほうが講義は上手だよ。現に君たちは、いざ試験といわれたときに、どちらのほうがはっきりと覚えているかね。T教授の講義はその場で分かった気になるが、少したつと忘れてしまうだろう。高木先生の講義はその場では分からなくても、よく調べて理解したのだから、なかなか忘れない。だから高木先生のほうがお上手さ」 学生は認めざるを得なかった。

確か中学か高校のはじめのときに初めて読んだのだと思うけれど、このエピソードは非常に印象に残っている。大学とはそういうところなんだ、と意識させられた。

今の大学では、おそらく高木先生のような講義は許されない。しかし、教わる立場としての、この学生の意識の高さは大切だと思う。講義が分かりにくければ、理解できないのを教員のせいにすることもできる。しかし、そうはせずに、自分で調べて理解に努める。つまり講義は勉強のきっかけに過ぎない。

今の大学では、T教授の講義が良いとされがちだ。しかし、それだけでは学生のためにならない。それに加えて、学生の理解を定着させるなんらかの工夫も必要となる。しかし、なかなかそこまで手が回らないことも多い。

私は講義は未熟の部類なので、とりあえずはT教授のような講義を目指す傾向にある。しかしそれだけではやっぱりだめ。さらに工夫しないと。それを自覚させられる。

しかし、学生自身の意識の高さもやはり重要だ。大学は高校の延長ではない。積極的に学びたいという姿勢が欲しい。

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